新刊「お姉ちゃんのムコになれ!」の配本が開始されました。明日や明後日くらいから、遅いところでも来週から店頭に並ぶことと思います。

お姉ちゃんのムコになれ!お姉ちゃんのムコになれ!
青橋由高(著)・悠樹真琴(イラスト)
美少女文庫
公式サイトはこちら(サンプルあり)

 何度もこのブログで書きましたように、とにかくページ数が足りなくて大変でした。
 なにしろ第一稿ではぴったり400ページもありましたからね……はははは(乾いた笑い)。

 しかもいつものように書きながらキャラや設定を変えちゃったため、ずいぶんと修正に手間取りました。
 今回、編集部の許可をもらって第一稿の序盤部分(プロローグ&第一章)を公開しますが、ざっと挙げるだけでも以下の点が完成版と異なります。

・三女の言葉遣いが異なる(これは悠樹真琴さんのイラストに触発されて変更しました)
・主人公とお姉ちゃんたちの家族構成が異なる
・長女の職業がちょっとだけ違う
・主人公たちの父母の職業やキャラが違う
・主人公の腕の傷という伏線がまだ残ってる(完成版ではページが足りなくてカット)
・プロローグが全面差し替え


 実際には二〜四章のほうがやたらめったら変わってます。さすがにこっちは公開しませんが(^^;

 結構な分量ですし、読みにくいとは思いますが、興味を持ってくれましたら是非、本の方もよろしくお願いします! ここ大切! つまり……買ってください!
プロローグ


「いいか、我が愛しの娘たちよ。パパが一つ、いいことを教えてやろう」
 息子と娘たちを前にして、少しばかりアルコールに酔った父はそう切り出した。
「家事ができる女は間違いなくモテる。これはどこの国でも変わらない真実だ」
 自信満々に言い切った父の言葉に、四人の子供たちは「ふんふん」と頷く。
 父は暗に「お前ら、少しはママの手伝いをしろ」と諭したつもりだったようだが、
「つまり、家事ができないならできる旦那様をもらえばいいのね?」
 長女は最初から努力を諦め、
「つまり、主夫を見つけろということか」
 次女は間違った解釈をし、
「つまり、好きになった男に家事を仕込めば万事解決だわ!」
 三女はそう宣言する始末。
「い、いや、そうじゃなくてだな、お前ら」
 ちらりと父親が隣室を見たのは、そちらで待機してる黒幕、つまり娘たちの母たちの突き刺さるような視線を感じたためだろう。
 家事を手伝おうとしない娘にがつんと説教しなさい、と妻たちに強く求められた父はその端正なマスクに脂汗を浮かべつつ、再び三人の娘に顔を向ける。
「こらこらお前ら、パパが言いたいのはそういうことじゃないぞー?」
「違うの? 家事万能のお婿さんをもらえってことじゃなくて?」
 長女は小首を傾げ、
「私の不器用さは父さんも知ってるとおりだ。今さら家事など無理だ」
 次女はきっぱりと言い切り、
「じゃあパパは、家事ができない私たちは女として魅力がないって言いたいんだ?」
 三女は逆に父に質問を返した。
「そんなわけがあるものか! お前らは全員、私の可愛い可愛い、世界一の娘たちだ! 家事ができようができまいが、その魅力は変わらん!…………あ」
 子煩悩の父は即座にそう答えてしまった直後、己の失策に遅まきながら気づいた。恐る恐る振り返り、隣の部屋から自分を睨む六つの瞳に震え上がる。
「や、いや、だから今のは違うんだ。す、すまん、悪かった、だから……ひいっ!?」
 その後、父は隣の部屋に引きずり込まれ、結局朝まで戻って来なかった。
 母たちの作戦はこうして見事なまでに失敗した。失敗どころかむしろ事態が悪化したのは、この十年後、娘たち全員が家事ができないことが証明する。
 そしてもう一人、この夜の出来事で大きく運命を変えた少年がいた。
 両親や姉たちがそれぞれ自分たちの部屋に戻った中、少年だけはその場で一人何度も父の言葉を頭の中で反芻する。
(そっか。家事ができない女の子は結婚できないのか。だったら……だったら!)
 その日、少年は夜空に浮かぶ月と一つの約束を交わした。
 大好きな姉たちとずっとずっと一緒に暮らしたいという、たった一つの願いを叶えるために。

○第一章


 十年後、少年はあの夜と同じように白く輝く月を見上げていた。
 一日の色々な作業を終え、ようやく訪れた自分だけの時間に、こうしてベランダから夜空を眺めるのが龍之介にとって最も心安らぐ瞬間だった。
「今日も疲れた……」
 手すりに寄りかかったまま首を左右に振ると、こきこきと鳴る。とても高校一年生とは思えないくらい、大きな音だ。
 朝から晩までやることがみっちり詰まっていて、心安らげるのは学校に行っているあいだと、この深夜だけだ。
 ただし正確に言えば、学校でも完全に解放されるわけではない。
「あ、そうだ。明日は生徒会の打ち合わせがあるんだった。企画書作れってるー姉から言われてたっけ」
 生徒会長をやっている一つ歳上の三女・流音(るね)から命じられていた作業を思い出し、龍之介は無意識に溜息をつく。
 美しい夜景に後ろ髪を引かれつつベランダから部屋に戻り、パソコンをスリープ状態から復帰させる。
「ついでだ、希望(のぞみ)姉さんに頼まれてた書類も一緒にやっちゃうか」
 龍之介や流音の通う高校で教師をしている次女・希望から任されていた仕事のファイルも呼び出し、同時に作成を始める。
 子供の頃から三人の姉たちにあれこれ使われてきたこともあり、龍之介のスキルは多方面に渡る。掃除炊事洗濯裁縫から家計の管理や家電の修理に加え、各種事務仕事もこなす。
「あーあー、るー姉の原案、相変わらずひどいな。こんなの学校でやれるわけないのに」
 流音が「このアイディア、それっぽく企画書に仕立て上げておきなさい」と渡してきたレポート用紙には体育祭についての案がいくつか記されていたが、
「どこの世界に、『ドキッ!丸ごとスクール水着!女子高生だらけの水泳大会』をやる体育祭があるのさ……」
 どれもこれも限りなく実現不可能なものばかりだ。
 また、
「希望姉さんのメモも……うわ、これ、なんて書いてあるんだろう?」
 次女のメモには暗号レベルとしか思えないクセのある字が判読を拒むように並んでいた。恐らくこの文字列を解読できるのは、世界でも希望本人と弟の龍之介しか存在しないだろう。
「まったく……二人とも、もうちょっとなんとかならないかなぁ」
 ぶつぶつ言いつつも、龍之介の表情はどこか明るい。姉たちに頼られてるというのが嬉しいのだ。
 こういった作業は慣れてるので、時間さえかければなんとかできる。姉たちのためなら己の睡眠時間を削ることなどなんとも思わない筋金入りのシスコン、それが光原龍之介という少年である。
「体育祭は、るー姉がなんか目立てるような競技を一つ組み込めば納得してくれそうだからそっち方向で考えるとして、先に希望姉さんの書類片付けるか。……ん?」
 職員会議で使う書類を作ろうとしたそのとき、机の横に設置された内線電話が鳴った。長女の沙月(さつき)からだ。
「もしもし、どうしたの沙月お姉ちゃん」
「ううぅ、龍ちゃん、お腹空いた……なにか作って……お姉ちゃん、死ぬ……」
「了解。すぐに用意するね。ちょっとだけ待ってて」
 龍之介はすぐに部屋を出ると、階段を下りて長姉の部屋へと向かう。
 光原家は平均的な日本家屋に比べるとかなり大きいが、家庭の事情により空き部屋も多い。
「沙月お姉ちゃん、龍之介だけど」
 家の一番奥、最も陽当たりの悪い場所にある沙月の部屋をノックすると、
「……助けて……死ぬ……」
 ドアの向こうから、小さな、弱々しい声が返ってきた。
 なにも知らない人間が聞いたらすわ、何事かと慌てそうなくらい切羽詰まったものだったが、
「はいはい、開けるよー」
 もう慣れっこになっている龍之介は表情一つ変えずにドアを開ける。
「……うわ」
 この「うわ」は、薄暗い部屋の中央で俯せに突っ伏してる姉に対してではなく、室内の散らかり具合に向けられたものだ。
「一昨日掃除したばかりなのに、なんでこんなになってるのさ、お姉ちゃん」
 八畳の和室には弟が干さない限り永遠に敷きっぱなしの布団がでんと居座り、その上には現在、二十六歳の独身女が大の字になって横たわっている。
「龍ちゃん……助けて……ご飯……死ぬ……」
「うん、今から作るよ。リクエスト聞こうかと思って」
「なんでも……いい……龍ちゃんの作るものなら……ゴミでも……食べる」
「それ、褒められてるのか微妙な表現だよね。……じゃあ、すぐにできるもの用意してくるね。少しだけ待ってて」
 万年床の上で長い黒髪が僅かに動いたのは、どうやら頷いたためらしい。
 龍之介はそれを見届けてからキッチンへと向かった。


 よく食べるくせに胃腸が弱い(というか、そもそも身体全般が弱い)長女のために消化のいい、そしてすぐに用意できる温そうめんをさっと作り、これだけだと間違いなく「物足りないよお」と子供のように駄々をこねるのはわかりきってたので、この他にも手早く用意して沙月の部屋へと戻る。
「沙月お姉ちゃん、生きてる?」
「…………」
 返事がない。が、ただの屍でない証拠に、きゅるきゅると腹の虫がなる音が聞こえた。
「ほら、ちゃんと起きて。寝たままじゃ食べられないでしょ?」
 布団の上に俯せになったまま動かない沙月をシーツから引き剥がすように持ち上げる。室内着代わりのバスラップ越しに感じる柔らかい感触に耳を赤くしながらも、掛け布団と枕を背中と腰にあてがって義姉を万年床の上に座らせてやる。
(沙月お姉ちゃん、またブラしてないんだ。いくら楽だからって、もう少し気を遣ってくれないかなぁ。僕だって男なのに)
 ワンピース型バスラップの胸元からは豊かな谷間がはみ出さんばかりだし、裾も捲れ上がって思い切りショーツが見えている。
(そりゃ、お姉ちゃんの下着も僕が洗ってるくらいだし、今さらなんだけども)
 それでもやっぱり健全な男子高校生としてはどきまぎしてしまう。
「あうぅ。お腹空いたぁ」
「だからほら、作ってきたってば」
 姉の無防備な肢体から目を逸らし、料理の載ったトレイを差し出す。
「……」
 しかし、沙月は動かない。お腹の虫だけがきゅるきゅる鳴り続けている。
 腰まで届くような長い長い黒髪を指でいじりながら、無言のままじっとしている。
「お、お姉ちゃん?」
「……(じー)」
 沙月の前髪は顔の半分を完全に覆うほど長く伸びているため、非常に感情が読みづらい。なにしろほとんど目が隠れていて、口元しか見えないのだから。
「な、なに、その目は。まさか、また食べさせて欲しいの?」
 にもかかわらず、龍之介は髪の隙間から僅かに見える瞳と全体の雰囲気だけで姉の言いたいことを察知できてしまう。
「……(こくこく)」
 弟の言葉に、沙月が嬉しそうに小さく頷く。
「じゃあ……あーん」
 姉に食べさせるのはこれが初めてでもないので、龍之介もすぐに箸を手にして、そうめんを沙月の口元に持っていく。
「あーん……ん……もぎゅもぎゅ……んっくん」
「お、美味しい?」
「うん。龍ちゃんの作るものはなんでも美味しい。……あーん」
 沙月は龍之介より十も歳上だが、
(うう、可愛い……お姉ちゃん、すっごく可愛い……!)
 布団にぺたんと座ったまま、親鳥からエサをねだるヒナのように口をあーんするその姿は、思わずこのまま抱き締めたくなるほどに愛らしい。
「んくんく……ちゅるるっ……あーん」
 幼い子供に食べさせてるような状況だが、決定的に違うのは、
(あああ、揺れてる……沙月お姉ちゃんのおっぱい、ぷるぷるしてる……ぅ)
 今、龍之介の目の前にいるのはれっきとした大人の女という点だ。
(あああ、そうめんのつゆで濡れた唇、なんか妙に色っぽいよお)
 沙月は今年二十六歳の、デビュー八年目を迎える官能小説家である。
 姉弟ものや百合もの限定というかなり特殊な作風にもかかわらず、コンスタントにそこそこの数字を出す中堅だ。
 固定ファン、特に若い女性に根強い人気があり、なんだかんだで常に仕事が舞い込み、年がら年中〆切に追われている。
「あー、美味しかったー。でもでも、まだなんか物足りない感じー。他にないのー?」
 親指を口に咥え、ちゅぱちゅぱ音を立てながら上目遣いで聞いてくる。まるっきり子供の仕草だ。
「用意してあるけど……そのクセ、やめようよ沙月お姉ちゃん。読者が見たら泣くよ?」
 小説を書いてるときこそ「お姉ちゃん、凄い」と思わせるものの、それ以外ではただの社会不適合者である沙月は、龍之介からすると手のかかる子供と大差ない。
 ただし、手がかかるからこそ可愛いという面も否定できず、
「はい、お姉ちゃんの好物、おむすびだよ」
 そうめんと一緒に作っておいたおむすびが載った皿を差し出す。
「……具は?」
「おかかとうずら」
 うずらおむすびは、あらかじめ燻製にしておいたものを具にしてある。
「うずら、好きー! あーん!」
「え。おむすびくらい自分で食べられるよね?」
「無理。お姉ちゃん、ついさっきまでお仕事してたんだから。キーボードの叩きすぎで手、ぱんぱんだもの。肩、上がらないよ?」
 このセリフは決して誇張ではない。
 沙月は子供の頃から超がつくくらいの虚弱体質で、風が吹けば流され、雨が降れば風邪を引き、刺激物を食べれば腹を下し、日光に当たると皮膚が腫れ、歩けば躓き、咳をすれば肋骨を折り、重いものを持てばぎっくり腰になるほどだ。
「明日にでも肩叩きとかマッサージするよ」
「悪いねえ、いつも龍ちゃんには苦労ばかりかけて。ごほごほ」
「下手な小芝居はいいって。……はい、あーん」
「うん。あーん」
 嬉しそうに大きく開いた姉の口におむすびを持っていきながら、龍之介は満足そうに微笑むのだった。


(もう……朝か……)
 光原家で最も早く家を出るのは教師の希望だが、最も早く起床するのは龍之介である。姉たちの食事や弁当の支度があるためだ。
「ふわああぁ……さすがに……睡眠三時間弱は……キツい……かも」
 あくびを噛み締めつつ、まだ寝ている姉たちを起こさぬよう静かに階段を下り、キッチンへと向かう。
 昨晩はあれから「目が冴えて眠れないよお」とぐずる長女にホットミルクを飲ませて寝かしつけ、それから次女に頼まれた書類を作成し、最後に三女に命じられた企画書を終わらせたのだが、そのときにはもう朝方近くだったのだ。
(ええと、沙月お姉ちゃんはどうせ昼過ぎまで寝てるから朝ごはんはいらないな。となると、朝食は三人分で、お弁当はお姉ちゃんの分も含めて四人分。夕食の仕込みは……いいや、今日は眠いし疲れてるから、学校で献立考えよう)
 赤い目を擦りつつ、慣れた手つきで料理を開始する。
(そうだ。今日は火曜だから肉の特売日だったっけ。忘れずにスーパーに寄ってまとめ買いしないと。それと、料理酒も補充しないと)
 弁当箱におかずを詰めながら、チラシ広告で作った自家製メモ帳に『肉。料理酒』と書き込む。本当なら手に油性ペンで書きたいところだが、
「みっともないからやめろ」
「貧乏くさいわね、もうっ!」
 希望と流音に止められたのだ。
(紙のメモだと、これ忘れたらおしまいってところがネックだよね)
 携帯電話のメモ機能を使おうと考えないところが、龍之介という少年の一端を示している。そういう機能があるとは知ってても、
「やっぱり信用できるのはアナログだし」
 などと考えてしまうところがある。
 外見こそ親譲りの端正な容姿なのに、その中身は完全に主夫なのだ。
 そんな龍之介の父は、元は俳優で現在は実業家で、年がら年中世界各地を飛び回っている。
 かつては全国区の人気を誇ったという父の遺伝子なのだろう、光原家の三姉妹はみな容姿に恵まれている。ただ全員タイプが違うのだが、それにも理由があった。全員、母が違うのだ。
 しかも龍之介に至っては、父とも血が繋がっていない。
「お、いい匂いだな」
 ダイニングに最初に現れたのは、教師二年目の次女だった。すでにパンツスーツに着替え、薄く化粧も終えている。
「希望姉さん、おはよう。今、朝ごはんできるからちょっと待ってて」
「ああ。……なんだ、人のことをじろじろ見て」
 冷蔵庫から取り出したパックの牛乳を腰に手を当てて直飲みする凛々しい姉が、口元を拭いながら弟を訝しげに見返す。
「いや……カッコイイなって」
「……それは普通、女に向かって言うセリフではないぞ、バカが」
 再び牛乳パックに口をつけてからもう一度「バカ」と龍之介を罵る希望だったが、その表情はどこか柔らかい。
 希望は大学時代まで水泳の選手だったせいか、やや肩が広い。ただし筋肉質な肢体ではあるものの、そのラインはしっかりと女らしい丸みを帯びている。
 ショートヘアと心持ち細めの瞳も相まって、凛とした美しさを周囲に与えるのが希望という女性だった。
「え。でも希望姉さんはカッコイイってば。モデルみたいに綺麗だしスタイルいいし」
 だからシスコンの龍之介は率直に感想を告げるのだが、
「ふん、お前なんぞに褒められても嬉しくもなんともない。むしろ迷惑だ、バカ者が」
 希望はぷいと顔を背け、素っ気なく弟の賛美を突っ返してくる。
 ただしその表情には、普段職場ではまず見せることのない優しい笑みがあった。龍之介の位置からはまったくわからなかったのだが。
「そんなことよりお前、頼んでおいたあれ、終わったのか?」
「うん、ちゃんとやっておいたよ。でも、一応間違いがないか確認して」
「面倒だ、確認なんぞ必要ない」
 希望は読んでいた新聞記事から目を離さぬまま、龍之介から書類の入った封筒を受け取る。
「……なんだ? まだなにか用があるのか?」
「ううん、なんでも」
「だったら私の顔なぞ眺めておらんで、さっさと朝食を作れ。こっちは学生と違って早く学校に行かねばならんからな」
 その学生であるところの弟に仕事や家事を押しつけてる点は完璧に無視である。
 が、そんなことなどまったく気にしてない龍之介は甲斐甲斐しく姉のためにお茶をいれ、手早く朝食の準備に戻る。
「今日はちょっと蒸すね。衣替えしたあとで助かったよ。あ、クリーニングに出していた希望姉さんのサマースーツ、学校帰りに受け取ってこなくっちゃ」
「人の服の心配より先に、お前はもう少し自分のことを考えろ、バカが」
 目の前に並べられていく朝食(玄米を混ぜたご飯・納豆・焼き海苔・豆腐とわかめの味噌汁・甘めの厚焼き玉子・タコさんウインナー)を長めながら、希望がぼそりと呟く。その視線の先には、長袖に隠された左腕があった。
「え、なにか言った?」
「……ふん、なんでもない! ほら、さっさと納豆とご飯を混ぜろ! 遅刻してしまうだろうが!」
 ぷい、と龍之介から顔を逸らし、希望は茶碗と納豆の入った小皿を突き出してくる。
「あ、うん、ごめん。今やるよ」
 現在は教師をしている希望だが、かつては競泳選手として多くの注目を浴びた。
 現役時代はオリンピック候補にまでなったほどの強豪だったが、実力に加えてその凛々しい容姿に一部ファン(若い女性が大半)から熱狂的な支持を集めていたのだ。
 試合会場では「お姉様ぁ」「希望様っ」といった黄色い声援が飛ぶこともあったが、本人はいたってクールで、しかしそれがますます彼女たちを喜ばせる。
(あのファンの子たちは知らないだろうなぁ、希望姉さんが自分で納豆も混ぜられないくらい超不器用だってこと)
 渡されたご飯の中央に箸で穴を開け、そこに納豆とうずらの卵を流し込み、リズミカルに掻き混ぜる。その後に焼き海苔を手で細かくちぎってまぶしてから希望に返す。
(たったこれだけのことなのに、なんでできないのかな、姉さん)
 この他、靴紐を上手く結べない、自分でうまく髪をセットできない(だから昔からショートにしてるらしい)、箸で豆をつまめない、背中にホックのあるブラが苦手、タイトスカートだとたまに転びそうになる、ハイヒールは確実に転ぶ、などの弱点を持つ。
「おい龍之介。玉子焼きはちゃんと切り分けておけ」
「あ、今やるね」
 そして玉子焼きも箸で切ろうとするとぐちゃぐちゃになるので、それも弟の仕事となる。無論、弁当はそこらへんも考慮して作らなければならない。
「まったくお前は、何度言っても学ばないな」
「ごめん、姉さん」
 本当は、食卓に並べる前にやろうと思えば全部できるのだ。けれど、龍之介はそれをやらない。それはもちろん、こうして大好きな姉との接点を少しでも増やしたいという下心があるせいだ。
(えへへ。姉さんが僕の掻き混ぜた納豆ご飯食べてる……えへへへ)
 希望だけでなく、沙月も流音も日常生活スキルはかなり低い。沙月に至っては、三日間弟がケアをしなければ普通に生命維持が困難となりかねないくらいだ。
 そんな姉たちを面倒だと思うどころか、世話できて嬉しいと感じるほどの高レベルシスコンなのが龍之介という少年である。
「うー、おあよー……龍、ご飯……」
 朝食を終えた次女を送り出すと、入れ替わりに三女の流音が居間に現れた。軽くロールした金髪が窓から差し込む朝日を反射して美しく輝く。
(ああ……今日もるー姉は綺麗だ。寝ぼけた顔も可愛いし)
 流音の母は北欧人とのハーフで、つまり、流音はクォーターとなる。隔世遺伝なのか、見た目はかなり日本人離れをしている美少女だ。
 手脚は長く、ウエストは男からすると信じられないほど細いのに、バストはそれと反比例して豊かという、同性から常に妬まれるスタイルの持ち主である。
「パンに塗るジャム、なにがいい?」
「んー、今朝はマーマレードの気分。……げ。希望姉さん、また納豆食べたわね」
 高い鼻をひくひくと動かし、先程まで希望が食べていた納豆の匂いを嗅ぐ。
「るーね……流音姉さんだって納豆は好きでしょ?」
 子供の頃のように「るー姉」と呼ぶと怒るので、最近は「流音姉さん」と呼ぶようにしているが、正直に言うとそれを少し寂しく感じている龍之介だった。
「好きだけど、朝に食べたら匂いがつくじゃないの! 姉さんはそういうところが女としてダメなのよっ」
「まあまあ、落ち着いて流音姉さん。……はい、コーヒー」
 朝はいつも不機嫌モードだと重々承知している龍之介は、笑顔を崩さずに姉の前にコーヒーカップを置く。猫舌の流音が飲みやすいように少し冷やし、ホイップクリームをたっぷり入れた特製のコーヒーだ。
「ふん、弟のくせに生意気よね、アンタ」
 そう言いつつ流音は素直にカップを受け取り、ぷっくりしたやや肉圧の唇で甘いコーヒーを飲む。
「ところで龍、企画書はできてるの?」
「うん。確認する?」
「面倒だからいい。確認する必要もないし」
 先程の長姉と同じような返答を返してくるのは、口ではなんだかんだ言いつつも弟を信頼してるからだ。龍之介本人はそういった自覚はないのだが。
「企画書のほうは学校に行く途中で説明なさい。使えそうだったら放課後の会議でみんなに発表するから」
 これは、弟のまとめた企画を自分のものとして使うという宣言に他ならないが、
「うん、姉さんに気に入ってもらえるといいんだけど」
 龍之介は屈託のない笑顔を浮かべ、姉の前にトーストやスクランブルエッグ、サラダを並べていく。
「アンタの企画、いっつも無難なものばかりで面白味に欠けるのよね」
「流音姉さんのアイディアに比べたら、大抵のものは無難に見えると思うよ……」
 二年生の流音は、先月の選挙で生徒会長に就任したばかりだ。一年生の龍之介は、流音の弟ということもあって同時に副会長に当選。
(僕とすれば、るー姉と一緒にいられるからそりゃ嬉しかったけど)
 龍之介たちの通う高校はのんびりした校風ということもあり、例年、立候補者の人数が例年足りなくなるほどだ。つまり、立候補してしまえばだいたい当選するのだ。
 そんなところに前副会長で最近はモデルとしても有名になりつつある金髪クォーター美少女が二年続けて立候補したのだから、落選するはずがない。龍之介も流音に命じられて立候補し、これまた楽々と当選を決めた。
「体育祭は、ま、しかたないわね。ひとまず無難な路線で我慢してあげてもいいけど、二学期の文化祭はそうはいかないわよ! がっつり派手にするんだから、アンタもしっかり手伝いなさいな」
「派手って、具体的には?」
「ミスコンをやるわ。もちろん水着審査つきで!」
「どう考えても却下だよ、それは」
「なんでよ。盛り上がると思うけど」
「今のご時世、色々と難しいから。あと、そんなのやったって結果が見え見えだし。普通に流音姉さんが優勝するでしょ」
 身内の贔屓目を除いても、流音が優勝する確率はかなり高い。そもそも、流音が参加すると表明した時点で他の候補者が辞退するケースもあり得る。
「あら、龍にしては珍しく的確な意見ね。……そうね、うん、確かに私が参加したら出来レースっぽいし」
 自信満々に髪を掻き上げ、これ見よがしに腕を組んで自慢の巨乳を強調するポーズをとる。そういった仕草が嫌味に感じられないことこそが、流音の一番の魅力なのかもしれない。
(ただ綺麗ってだけじゃ、女子にもあんなに人気ないもんね)
 この姉の凄いところは外見の美しさや派手さだけではなく、その存在感だと龍之介は考えていた。ただそこにいるだけでつい視線を惹きつけられてしまうような、そんななにかが流音には備わっている気がするのだ。
(そういう意味では、るー姉が一番父さんに似てるのかな)
 姉たちの実父であり、そして龍之介の養父である光原友典は一時期俳優としても人気を博したが早々に芸能界を引退し、現在は実業家として世界を飛び回る人物だ。
 恵まれた容姿もそうだが、なにより友典には周囲の人間を魅了する不思議な才覚があり、「たらしの友典」と評されることも多い。
(変なところは父さんに似て欲しくないんだけどなぁ。大丈夫かなぁ、るー姉)
 大なり小なり友典と同じ遺伝子を持つ龍之介たち姉弟は、全員整った容姿をしている。特に流音は、世界的なモデルとして活躍した母からはその美貌とスタイルを、そして父からは独特のオーラを受け継ぎ、姉弟の中で最も目立つ存在だ。
「……なに、じろじろ見てるのよ。うざいわね。龍の分際で」
「ご、ごめん」
 無意識に流音の顔を凝視していたらしい。
「誤る必要はないわ。弟ですら魅惑せずにはいられない私の美しさが悪いんだから」
「うん。流音姉さんは綺麗だよ。ホント、ずっと見つめていたいくらい」
「なっ……バカなの、アンタ!? 冗談もわからないわけっ!?」
 軽いジョークを真面目に反応された流音は、怒りのせいだろうか、頬を赤くして龍之介を睨む。切れ長の深いブルーの瞳に、龍之介は叱られてるのも忘れ、またも姉の顔に見惚れてしまう。
(ああ、怒ったるー姉も綺麗だ。でも、お姉ちゃんたちの中で一番父さんに似てるのはるー姉だから、恋愛方面も似ちゃってるのかな……)
 龍之介たちの父・友典には俳優・実業家以外にももう一つ、才覚があった。否、欠点と言ってもいい。それは天性・天然の、そして女たらしである、ということだ。
(恋多き女になんてなって欲しくないけど……これだけ綺麗なんだもん、いつかはきっと誰かと付き合うんだろうなぁ。ヤダなぁ。すっごくヤダなぁ。できるなら邪魔したいなぁ)
 沙月・希望・流音は三人とも母が違う。しかも全員、いわゆる愛人の娘だ。友典には別に本妻がいて、それが龍之介の母でもある。
 が。問題を複雑にしてるのは、龍之介が両親の実の子ではないという点だ。
「はあ……」
「ちょっとバカ龍。人の顔見てため息つくなんて何様のつもり!?」
「え? あ、違うよっ」
 慌てて否定するが、すぐに言い直す。
「ううん、やっぱり違う。お姉ちゃん見てたせいだよ、今のため息は。だって……それくらいるー姉、綺麗だもん」
「なっ……!」
 流音は怒りと照れが同居したような表情を浮かべたまま数秒間固まるが、
「く、くだらないこと言うんじゃないわよ、龍のクセに! アンタごときに褒められても嬉しいどころか、逆に腹立つんだから!」
 入り混じった感情をぶつけるように、丸めた新聞紙で龍之介の頭を思い切り殴ってきた。もちろん、大して痛くはない。
「朝っぱらから気味悪いこと言うんじゃないの! せっかくの一日が不愉快になるわ!……ほら、なにぼさっとしてんの、バカ龍!」
 弟を罵りながら流音がこんがり美味しそうに焼けたトーストを差し出してきた。ジャムを塗れという催促だ。
「あ、ごめん、るー……流音姉さん」
 いつものことなので、慣れた手つきでトーストにたっぷりとマーマレードを塗っていく。
「あと、その呼び方はやめなさいって言ってるでしょ。みっともない」
「ご、ごめん」
 昔は「るー姉」と呼んでいたのだが、何年か前から禁止されている。それでもときどき口にしてしまうが、そのたびにこうして叱られるのだ。
 もっとも、極度のシスコンである龍之介にとって姉に叱られるという行為はご褒美と言えなくもない。
(えへへ。るー姉にまた怒られちゃった)
 ニヤニヤしながら流音のトーストにジャムを塗り、空になったカップにコーヒーを注ぎ足す。甲斐甲斐しく姉の世話を焼く姿は、端から見るとあるいは惨めに映るかもしれないが、本人は思いきり幸せなのだ。
「ほら、お前をさっさと用意しなさい。弟のせいで遅刻したなんて、生徒会長として示しがつかないんだからねっ」
 だから、人にあれこれさせておいていけしゃあしゃあと言い放たれたとしても、龍之介はまったく気にしない。
「うん、すぐに用意するから!」
 流音が「固いからいらない」というトーストの耳を牛乳で流し込むだけの朝食を済ませ、自らの支度を始める龍之介であった。


 龍之介たち姉弟、いや光原家の事情はかなり特殊かつ複雑だ。
 父友典が正妻の他に三人もの愛人を作った上、それぞれ娘を儲けた。
 正妻とのあいだには子供が産まれなかったこともあり、早世した友典の弟の忘れ形見を養子として迎え入れたのが、つまり龍之介だ。
(自分の家のこととはいえ、とんでもないよねえ、ホント)
 いつものように流音の横を歩きながら、己の家庭環境の特殊さに小さく肩をすくめる。龍之介の荷物がやたらと多いのは、流音や希望の分の弁当も持っているからだ。
「ちょっと龍、なにさっきから陰気くさい顔してんの。やめてよね、朝っぱらから」
「ご、ごめん、姉さん」
 こちらを睨む流音に頭を下げながらも、龍之介は再び自分の家庭環境について思考を戻す。
 友典は事あるごとに、
「俺は妻たちやその娘も分け隔てなく愛している! 戸籍などただの飾りだ!」
 と主張する、息子から見てもかなり「うーん」な人間だが(そもそも「妻たち」という表現を使う時点で常人の理解を超えている)、この四人の妻や愛人たちは、
「でも、そんなバカなところも含めて愛してるわ、アナタ」
「愛がいっぱいある友典、素敵よ」
「ふん、お前のような浮気男を世間に放置するわけにはいかんからな」
「いいわよ。どうせアンタは最後にはあたしのところに帰ってくるんでしょうしね」
 ある意味それ以上に「ううーん」だったりするのだ。
 龍之介が聞いた範囲では、この五角関係はかなり昔から続いてるらしい。しかも正妻と愛人たちはライバルではあっても敵対はしてないという。
「バカ龍、聞いてんの?……なによ、どっか具合でも悪いわけ?」
 気づくと、すぐ目の前に愛しい姉の青い瞳があった。朝陽を反射する美しい金髪と白い肌、ぷっくりと柔らかそうな唇に、龍之介は思わず生唾を呑み込む。
「う、ううん、違うよ。ちょっと、その……考え事してただけだよ」
 二人の通う、そして希望の職場である高校が近くなるにつれ、同じ制服を着た学生が道に増えてきた。学年や性別を問わず、多くの学生たちが生徒会長である流音に挨拶をしていくが、弟で副会長である龍之介にも少なくない声がかかる。
「なに考えてたのよ。龍のクセに生意気っ」
 見知らぬ三年の女子たちから「龍之介くーん、おっはーよ」と声をかけられたので笑顔で手を振り返してたところ、急に表情を険しくした流音に問い詰められた。
(な、なんかるー姉、目が怖い。僕が考え事してたから? 黙ってたから?)
 基本的に流音はおしゃべりな上、女王様気質だから自分の話に周囲が反応しないと不機嫌になる。だから登下校の際は荷物持ちと話し相手を兼任して龍之介がいつも流音の隣を歩くのだ。
「ほら、言いなさいよ。弟の分際で私の話を適当に聞き流しながら考え事なんて、アンタ、何様よっ」
 それにしても普段より流音の態度がキツく感じられる。
(うう、僕、他にもなにかるー姉怒らせるようなことしたっけ?)
 そんなとき、今度は同じクラスの女生徒たちが通りかかったので「おはよう」と反射的に挨拶をしたところ、
「……龍」
 流音のブルーの瞳に危険な光が宿った。明確な敵意、あるいは殺意に準ずるなにかを感じる。いったい自分のなにが姉をここまでさせたのかわからないことが余計に龍之介を焦らせる。
「ご、ごご、ごめんなさいるー姉っ。あの、その……えっと、父さんとか母さんとか、姉さんたちのお母さんのことを考えてただけですっ」
 その呼び方はやめろ、と軽く頬をつねられた。
「なんで急に。パパか、ママたちの誰かがなにか言ってきたの?」
「ううん、そうじゃないよ。ただほら、例の件があったからちょっと」
 例の件というのは、毎年春に開かれる食事会のことだ。
「ん? 別に、いつもどおりだったでしょ。ママたちがいがみ合うのはいつものことだし、あれだって半分じゃれてるようなもんだし」
 光原家の人間が一堂に会するこの場は、友典はもちろん、四人の妻とその子供たち、合計九人で行われる。毎年欠かさず全員が揃い、夜通し騒ぐのが慣例ととなっていた。
 流音の母などはわざわざこの食事会のために母国から日本までやって来るのだ。もちろん、愛娘に会うという目的もあるのだが。
「うん。でも今年はちょっと様子が違ったじゃない。ほら、父さんが今度大きな家を建てるって話をしてさ」
 世界中を飛び回る仕事の父は、家族全員が一緒に暮らせる大きな家を建てるのが夢だったらしい。正確に言えば、みんなで一緒に暮らしたいだけで、邸宅云々は方便だろう。
「ああ、あれか。だけどパパ、毎年同じようなこと言ってるじゃない。そのたびにママたちからブーイング浴びまくって」
 友典は本気で「家族みんなで一緒に住もう」と言ってるものの、ちょっと考えればそれがどれだけ大変かわかろうというものだ。
「ただ……そうね、龍の言うとおり、今回のパパは確かにちょっといつもと違った気はするわ。ママがあんなこと言い出したのもそのせいだろうし」
「あんなことって?」
 龍之介が聞き返した瞬間、流音はあからさまに「しまった」という顔で自分の口を手で塞いだ。嘘がつけない少女なのだ。
「な、なんでもないわ」
 顔を背け、逃げるように大股で弟から距離をとろうとするその姿は、どう見ても隠し事満載だ。
 こうなってしまうと、あとはもう力業で誤魔化そうとするだけだから、問い詰めるのは逆効果となる。しばらく放置して、油断したところで聞き出すほかはない。
(るー姉、強情だからなぁ。そこが可愛いんだけど)
 結局、流音がなにを隠そうとしたかはわからなかったが、逆に龍之介の考え事がなんだったのか追及されなかったのだから、痛み分けだったかもしれない。
(言えないよね、いつか姉さんたちが誰かよく知らないと男と付き合うのかと思うと嫉妬でどうにかなりそうだ、なんて)


 昼休みになると、龍之介はまっすぐ生徒会室へと向かう。
 これは生徒会役員になってからほぼ日課のようになっている。その理由は言うまでもなく、姉の流音に命令されてるからだ。
「アンタは私の弟、そして副会長。姉であり会長である私の命令は絶対。いいわね?」
 とのお達しがあって以降、姉の弁当を持参する毎日である。
 しかし、これはシスコンの龍之介にしてみれば願ったり叶ったりだ。なにしろ、昼休みのあいだはある意味密室である生徒会室で、姉弟水入らずで過ごせるのだから。
「入るよ、流音姉さん。……あれ?」
 ノックをしてから生徒会室に入ると、そこには流音以外の人間が椅子に腰かけていた。それも、龍之介がよく知る人物が。
「なんで希望姉さんがここに?」
「学校では光原先生と呼べと言っただろうが、バカ者」
 ぎろり、と睨んできたのは二番目の姉、希望だった。
「す、すみません光原先生。……えっと……」
 どうして希望がいるのか、という目で流音を見る龍之介だったが、
(うわ。るー姉、機嫌が悪い。あれぇ、僕、なんかしたっけ? 別に遅刻もしてないし……怒らせるようなこと、覚えがないんだけど)
 希望と流音はちょうど机を挟んで対角線の位置に座っている。
 希望はいつもと同じ席だが、腕を組み、指をとんとんと苛立たしげに動かして、実にわかりやすい不機嫌さを漂わせていた。
(う。そんなふうに腕を組まれると、胸が……おっぱいがむにゅんってぇ……!)
 制服の上からでもはっきりわかるほどのたわわなバストが、両腕に挟まれたせいでより強調されてしまう。見てると知られたら嫌われるとは重々承知してるのに、龍之介の視線はどうしても流音の胸元へと引き寄せられる。
「なんだ。私がここで食事をしたらまずいのか、ん?」
 どん、と龍之介の作った弁当箱を机に出しながら希望が言う。
 水泳で鍛え上げた肢体を包むタイトなスーツ姿は凛々しさと同時に大人の色香も感じさせる。
「え。でも姉さ……先生はいつも職員室で食べてませんでしたっけ?」
「ふん、あそこにいると色々と気を遣って疲れるんでな。ここならお前らしかいないから楽だと思っただけだ」
 にやり、と悪戯っぽく笑ったその表情は、家族にしか見せない素のものだ。
「教師も楽じゃないんだよ。特に私のような新米はな。……龍之介、食べ終わったら少し肩を揉め」
 ぽんぽんと己の肩を叩きながら、まるで弟に見せつけるかのように大胆に脚を組む。
(わわ、凄い……希望姉さんの脚、やっぱり綺麗だ……っ)
 タイトスカートから伸びた長い脚はパンストによってコーティングされ、龍之介の口内に唾液を分泌させる。
「わ、わかりました。食べ終わったらすぐに、」
「ちょっと龍。私との先約を忘れたの? アンタはこのあと、例の企画について私に説明する仕事があったでしょ」
 機嫌の悪さを隠そうともしない刺々しい声は流音のものだ。
「え? でもそれは放課後でもいいんじゃ……あっ」
 声のした方向に目を向けたその瞬間、流音は希望の動きを真似したかのように脚を組んだ。
 短い制服のスカートが一瞬ひらりと舞い上がり、その刹那、淡いブルーの下着が龍之介の網膜に飛び込む。
(み、見えちゃった……るー姉のパンツ、見ちゃった!)
 龍之介は家族全員の洗濯も担当してるので、姉たちの下着も全部知っている。だが、実際に身に着けてるものはまったくの別物だ。
「こら流音、はしたないぞ。スカートを短くするのなら不用意な動きを見せるな」
「もちろん、外ではちゃんと気をつけるわよ。でも、こいつに気を遣う必要はないでしょ、姉さん」
 最後の「姉さん」は、先程の龍之介のようについうっかり言ってしまった類ではなく、明らかにわざとだった。
「……学校では先生と呼べ」
「はーい」
(な、なに、この妙な空気!? どうして姉さんとるー姉、睨み合ってるの!?)
 姉たちのあいだに漂う、見えないけれど張り詰めた空気に、龍之介は生徒会室の入口に立ち尽くす。
「おい、なに突っ立てるんだ。さっさと座れ。鬱陶しい」
 そんな弟に向けて、希望が自分の隣を目で示す。そこに座れということらしい。
「ほら龍、いつまでもぼーっとしてるんじゃないわよっ」
 流音もまた己の横の椅子を乱暴に引き出し、ここに来いと睨んでくる。
(こ、この場合、僕はどっちに座ればいいの……!?)
 頬を伝う一筋の汗は、最近日毎に上昇する気温と湿度のせいではないだろう。
「龍之介」
「龍」
 二人の美しい姉たちの視線の前で、憐れな弟はおろおろするばかりであった。


(くっ、流音のやつめ、なんだあの勝ち誇った顔は。姉を姉とも思わん生意気な妹だ)
 希望はむすっとした表情のまま、黙々と箸を動かしていた。ときおり目の前の妹と弟に向けられるまなざしはかなり鋭い。
「ほら龍、さっさと用意なさいな。いつまで待たせるつもり? 昼休みが終わっちゃうじゃないのよ」
「ご、ごめん姉さん。今作るから」
「お前ら……学校でなにをやってるんだ」
 視線だけでなく声までもが険しくなってるのが自分でもわかる。
「え、なにってお昼ご飯だけど。流音姉さんのリクエストで」
「どこの世界に学校で手巻き寿司を作るバカがいるッ」
 保冷バッグから取り出した重箱には酢飯と具が詰められており、龍之介はそれをこの場で巻いているのだ。
「あ、あの……先生もどうですか? 多めに持ってきてあるし」
「いらん!」
 本音を言うと少し、否、かなり食べたかったのだが、こちらを見る妹の勝ち誇った顔に、つい意地を張ってしまう。
「はい、流音姉さん、お待たせっ」
「あら、なによアンタ。もしかして私に素手で食べさせるつもり?」
「え?……あ、ごめん、ちゃんと箸も持ってきてるよ」
「バカ。そんなの面倒よ。私に食べさせなさい」
(な!? ど、どういうことだそれは!?)
 箸を動かす手をびくりと震わせてから、希望は剣呑な目つきで対面に座る妹と弟を見る。
「し、しかたないなぁ、姉さんは。じゃ、じゃあ……はい、あーん」
「あーん」
「っ!!」
 龍之介の手によって寿司が流音の口元へと運ばれていく。
 ただそれだけであれば、希望もまだここまで憤らなかっただろう。光原家の姉妹は大なり小なり、弟に「はい、あーん」をさせているのだから。
(こ、こいつ……!)
 希望がカチンと来たのは、流音がちらちらと視線を送ってくることと、なんだかんだで嬉しそうに姉の世話を焼く龍之介の緩んだ顔のせいだ。
(流音も流音だが、龍之介も龍之介だ! 貴様がそんなふうに甘やかすから、沙月姉さんも流音もいつまで経っても独り立ちできんのだ!)
 折れんばかりに箸をぎりぎりと握り締め、「次はどの具がいい? 姉さんの好物ばっかり揃えたからね」とにこにこしながら寿司を巻いていく弟を睨む。
(この様子を見ると、こいつら、以前にも似たようなことやってたな)
 自分が一人、職員室で黙々と弁当を食べてたときに、この生意気な妹は従順な弟と二人きりで恋人のような時間を過ごしてたのかと思うと、腹が立ってくる。
(まあ、それも今日までだがな)
 龍之介の手作り弁当を完食した希望は、自販機で買ってきた缶コーヒーをぐっと飲み干すと、三つ目の手巻き寿司を「あーん」したばかりの流音に向かって通告する。
「生徒会室は静かでいいな。よし、明日からは私もここで昼食をとるとしよう」
「はぁ!? な、なんでよ姉さん!」
「先生と呼べ。……別に構わないだろう。それともなんだ、私がいるとなにか困ることでもあるのか、ん?」
「く……っ」
 青い瞳が悔しそうに吊り上がるが、姉にしてみれば妹に睨まれても怖くもなんともない。むしろ心地よいほどだ。
「と、いうことだ、龍之介。文句はないな?」
「う、うん、わかったよ、姉さん」
「よろしい」
「ちょ、ちょっと希望姉さん、どうしてこいつには先生と呼べって言わないの!? ズルい! そして龍、アンタもなんでそんなにやけてんのよ、バカッ!!」


(くううぅっ! 希望姉さん、なに割り込んできてんのよ! せっかく龍と二人きりになれる場所と時間を確保したと思ったのにッ)
 がうッ、と飢えた獣のように弟の持つ手巻き寿司を頬張り、どさくさに紛れて軽く龍之介の指を舐めてやる。
(んふふ、赤くなっちゃって……可愛いじゃないの、龍。そうよ、そのまま自分のお寿司を巻くフリして、こっそり指を舐めていいんだから。間接キスしちゃいなさい、このシスコン!)
 バレてないと思ってるのだろう、「ぼ、僕も食べようかなっ」とわざとらしく呟きながら寿司を巻き始める龍之介を横目で見つつ、流音はその肉厚の唇をほころばす。
(あーあ。姉さん、邪魔だなぁ。ここでならちょっとずつ龍を懐柔できると思ってたのに)
 流音は、いや、光原家の三姉妹は全員、ブラコンだ。それも、かなりの。
 お互いに口に出して確認したことはないものの、たとえ腹違いではあっても姉妹だし、長年一緒に暮らしているのだ、姉たちの想いなどわかっている。また、流音の想いもバレバレだろう。光原家の人間で気づいてないのは龍之介本人だけだ。
「龍、喉渇いたわ。いつものやつ、自動販売機で買ってきて」
「お茶ならあるよ?」
 龍之介は重箱と一緒に持って来た水筒を開けようとするが、
「コーヒーを飲みたい気分なのっ! いいからさっさと行きなさい、バカ龍!」
「う、うん、行ってくるっ」
 不条理な命令にもかかわらず、龍之介は素早く立ち上がり生徒会室を出て行く。
(ごめん、龍)
 普段は絶対に口にしない言葉を胸の内だけで呟いてから、希望に目を向ける。
「どういうつもりなのよ、希望姉さん」
「ふん、お前の思ってるとおりだよ、流音」
 華やかな金髪美少女と凛々しい女教師の視線が一瞬、空中で交差する。
「お前や沙月姉さんと同じように、私も母から勅命を与えられてるからな」
 沙月、希望、そして流音の三人はそれぞれ母親が違う。また、龍之介に至っては父すら違う(実際には友典の甥に当たり、姉妹からすると従弟となる)。
 けれど子供たちとそれぞれの親の仲はいい。流音たち娘からすると父が一人に母が四人いるような感覚に近い。
 問題があるのは四人の妻たちの関係だ。
「私は別に、ママになに言われようと関係ないわよ」
 流音はそううそぶくが、そんな言葉が通用するなどとは本人も思っていない。
「だったらこそこそ動かず、堂々とアイツを堕とせばいいだろうが。あのブラコン、お前のその無駄にデカい乳で誘惑すれば一発で陥落するぞ」
 鋭い視線が流音の胸に突き刺さる。巨乳の姉と妹の狭間で希望が自分のバストサイズを気にしてるのはもちろん流音も気づいているが、そのまなざしの険しさから察するに、それは相当根深いコンプレックスのようだ。
「姉さんこそ、あのブラコンに命令すればそれで済むんじゃないの? 姉さんが私の女になれって言えば、龍のやつ、尻尾振って承諾するわよ、間違いなく」
「そ……そんなこと、私のプライドが許さんっ」
(あ。今、言い淀んだ。考えたことあるんだ、やっぱり)
 その性格と外見から「鋼の女」とまで呼ばれた姉の一瞬の動揺に、流音は希望が本気なのだと改めて知る。
「それに、あいつは元々私のモノだ。今さらそのような命令など必要ない」
「なら、どうして急にここに来たのよ。私と龍の時間を邪魔しないで欲しいんだけど」
「母親の指示に従ってるだけのお前に、あいつは渡せん。私は姉としてあのお人好しを保護する義務があるからな」
(うわ。姉さん大人気ない。この期に及んでまだそんなことを……)
 六つも歳上の、そして教師である姉の見苦しい言い訳に金髪の妹は心底呆れる。
(姉さん、見た目はこんなにカッコイイ大人の女なのに、中身は沙月姉さんとどっこいどっこいなのよねえ……)
 はあ、と溜息をつき、弟が置いていった水筒から注いだお茶を飲む。コーヒーを買いに行かせたことなど、とっくに脳裏から消えていた。
「ふん、反論がないというのはつまり、お前は本気でないということだな?」
「ちょっ、なに勝手に納得してんのよっ。私はママに言われなくとも、最初っからあいつを狙ってんの!」
 光原家の一番の問題は、姉妹の母親たちのライバル意識である。
 実はめちゃくちゃ仲がいいよねあの人たち、というのが娘三人の共通認識だが、本人たちは絶対にそれを認めない。
「大声を出すな、バカが。あいつに聞かれたらまずいだろう、お互いに」
「う」
 姉に諭され、流音は慌てて口を噤む。
「真面目な話、お前も私も本気であいつを好いてるのはお互い知ってのとおりだ。沙月姉さんは……まあ、今一つわかりにくいが、あの人なりに龍之介を狙ってるんだろう。多分」
「ま、まあ……うん、そうね」
 希望のストレートなセリフに、耳を熱くしながらも頷く。言葉にされるとやはり照れくさい。
「正直に言おう。私もいい加減、あの親たちのくだらん茶番に付き合うのに疲れてきた」
「そ、それってつまり……ママたちの言いつけを無視するってこと?」
「ああ。私もお前も三年付き合ってやったんだ、これ以上あの意地っ張りな親たちに振り回されることもないだろう」
「でも……」
「無論、お前はお前の好きにすればいい。このまま母親の指示に従うもよし。むしろ、私にしてみればそのほうが好都合だからな。ライバルが減る」
 この言葉に嘘は感じられなかった。希望は本気で言っているのだと、妹である流音はすぐにわかった。
「……」
 しかし、流音は結論を出せなかった。
 姉の決断を羨ましいと、自分も追従したいという想いと同じくらい、母の気持ちも理解できるからだ。
「まあ、いい。好きにしろ。お前がどうするにせよ、私は好きにやらせてもらうだけだからな」
 黙ったままの妹を見つめたまま、希望は静かに、けれど力強くそう宣言するのだった。


(ここまでが第一稿の一章でした)